先日の「五感カフェ」コラムで

あなたはなぜそれが好きなのか?

得意なことと本当に好きなことの違いはなにか?

についてお伝えしました。

 

そのときの記事はこちら →  五感は絶対的なじぶん領域

 

それは「自分にとっての快の領域に辿りつくこと」

であり、突きつめて追求する状態がまさに

快の領域、ということでした。

 

自分とつながる、内観する、潜在意識をひらく・・・

さまざまな言葉がありうっかり惑わされそうになりますが

シンプルにいうと、自分だけの世界

独断とフェティシズムのこと

それを認めること、となります。

 

今回はさらにその領域=ボーダーラインを広げ、

わたしの日頃の活動に沿ってお伝えしようと思います。

 

写真やヴィジュアル、自己表現、モデル活動をされている方へ

それぞれに伝わっていただけたらうれしいです。

 

 

 

快の領域として何をしているかと問われれば

わたしは写真表現、となります。

そして、わたしを含む表現者にとっての命題それは

「なにを撮るのか」と問いつづけることです。

 

さらにどんな被写体を撮るのか?

なぜそれを撮るのか?という

禅の世界のような対峙を

つねに心がけていると言えるでしょう。

 

何が言いたいかというと

「なにを撮るのか」「誰を撮るのか?」

ということと

「なぜ写真を撮るのか?」という問いは

同じようでいて随分と違うということです。

 

この世に、唯一これしかないといった絵画作品や

ゼロからなにかを生じるような

独断性を持っていない写真という表現媒体は

もはや大量生産されるためだけに記録され消費されつづけ

日常の中で瞬く間に排出されてゆく運命です。

 

そこにどう価値を感じればいいのか?という

疑問を持ちながら表現しつづけることが求められます。

 

わたしにとって写真表現とは

一枚の美しいアート作品を仕上げるためのものだけではありません。

 

いくら撮り続けても決してフレームにおさめることはできない

膨大な世界の断片と一緒に

たゆまなく流れつづけている感覚です。

 

その間、ほんの一瞬でも、時間を超え

自己と世界がつながるようなリアリテイがあったとしたら

この感覚がわたしにとって快のフィールドとなり

唯一の表現手段として存在しているのでしょう。

 

この矛盾した世界観がわたしにとって快のフィールド。

 

 

また、ポートレイトのようにダイレクトな視覚的要素に対し

「誰をどのように撮るのか?」という問いがあります。

 

ここで誰かの主観性、客観性と

単純に2分割をすることは

アートにとって無意味だと思っています。

 

もっと言えば、ここからここまでという

意識のボーダーラインは存在しないもの。

 

わたしたちは、

カメラという現代社会を視る《もう一つの眼》として

すべての人類に平等な機械を使い

光を媒介にして視たものを可視化させているにすぎません。

 

その主観と客観は、常に相対化されるものである以上

一枚の写真には、必ずそのどちらの要素も含まれています。

 

被写体である彼ら彼女ら、そして

わたし自身が不自由に生きる世の中で

いつも自由になることを求めているように

写真を撮ることに関しても絶対的な自由を持ちたい

 

そう感じながら

「好きの領域」で浮遊しつづけているのかもしれません。

 

 

だって、世界はこんなにも真実で溢れているのですから。

時間を記録しておきたくなる衝動を抑えることなど

ナンセンスなのです。

 

ただ好きだからという理由で

「なにを撮るのか」「誰を撮るのか?」

「なぜ写真を撮るのか?」という問いの共通点があるとしたら

それは、表現の可能性の追求と

自分の可能性を断ち切るボーダーラインは無い

ということなのでしょう。

 

理屈なく好きだからこそ

ここまで、というゴールはないし

なくてもいい。

 

あなたにとって「快の領域」は何ですか?

それはどこへ向かっていますか?

 

maquico kitagawa