こんにちは。感覚派にお届けする「五感カフェ」です。

今回はニュートラルな視点をキープしやすくなるように

「大きなハテナを持つこと」についてお届けしたいと思います。

 

前回の写真論をお読みで無いかたはこちらからどうぞ>>>>


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感覚のズレが教えてくれること

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わたし達は、つい自覚しないうちに

《こころの色眼鏡》をかけて世の中を見てしまっています。

ニュートラルな視点を持っていようと心がけながらも

どうしてもそこからズレてしまうものです。

 

そんな思いこみや自分勝手なジャッジに気づくきっかけは

人によってさまざまですが

おそらく、多くの方は自分の興味のジャンルや

知りたい思想に基づいているもののようです。

 

つまり、ついニュートラルな視点からズレてしまう時とは

をすでに自覚していたり、顕在している事がらであったり

もしくは興味のある分野や人文、哲学、人物像・・・

そんなところではないでしょうか。

 

かくいうわたしの場合はちょうど今頃の季節。

コンペションの審査員をする時期にそのズレを感じます。

 

自分の《こころの色眼鏡》で判断していると感じるときは必ず

わたしの色眼鏡では認識できない

「超えている作品」と出逢ったときなのです。

 

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ファーストインプレッションを大切にする

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この現象は嬉しいことでもあるので

最近は楽しい「気づき」となって

色眼鏡を外せる良いチャンスに変化してくれます。

 

普段は見ることはできない斬新な作風への

第一印象とは、自分では無自覚な美的感覚につながっているものです。

 

こうして「ジャッジしていると気づいた時のわたし」は

どんな状態、どんな状況に出会った時が多いのか?と

考えてみると多くの視点が持てて面白いので

オススメの思考シフトです。

 

色眼鏡=勝手な価値基準で作品を感じている

このことはひとことで言えば

「なにこれ?」

という思いを持ってしまうようなときです。

 

アートに限らずみなさんも

日常の中でご経験があるのではないでしょうか?

 

初めて見るものなどほとんどない、という

超ハイテク社会に生きていて感じる違和感のようなもの。

 

それは、一見して拒否反応に似た

ザワつきが起こり、恐怖に似た不快感でもあります。

 

年齢を重ねると、フィジカルだけではなく

メンタルも保守的になってしまうものなのかもしれないなあと

ジェネレーションギャップを垣間見る瞬間です。

 

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『未知なる作品』を

純粋に受け取っていますか?

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常にニュートラルでありたいという思いはあっても

わたしのかけている「年季のはいった色眼鏡」によって

変形して見えるものや受け付けられない色彩や形状

サイズの合わないものに対し、反応は起こります。

 

同時に、そんな反応を鵜呑みにしてしまい

思考停止した人のように

新しいアートの姿をすぐに排除してしまう、という傾向は

 

現代アートの世界では

どうしても起きてしまうものとして

自覚しておくことも大切な側面である、

ということも知っておかなければならない事実だと思っています。

 

とはいえ・・・

自覚していてもこれがなかなか難しいのが現実。

 

だから、せめてわたしの色眼鏡で

変色してしまいそうな作品と出逢った時だけは

時間をおいて再び見る機会を得るようにしています。

 

そうでもしないと、凡人のわたしは、

色眼鏡もカラーコンタクトつけたまま

モノゴトを判断してしまいそうになるからです。

 

また、これは

どんな分野でも危険な傾向だと思っています。

 

だって、生きている間に

世の中のすべてに出逢えるわけではないのに

目の前の『未知なる作品』が純粋に見えないなんて・・・

 

これほどもったいないことはないではないでしょうか。

 

 

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無意識で引き寄せているのがアート表現

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せっかく自分の経験を総動員しても

計り知れない新しい「なにか」が出現したのですから

拒絶や否定は、ただの惨めな執着

手垢のついたこころのゴミにつながってしまいます。

 

(この五感カフェをお読みの方ならそんな心配はないかと思いますが・・・)

これは大きな経験の損害ですから、

今後もぜひ見逃さずにいてくださいね。

 

もっというと、わたしはこんな時

運命のチャンスを逃しているかもしれない!と

少しだけ恐怖に感じたりもするのです。

 

無意識のレベルでその斬新な作風に触れたいと

願っていたからこそ目の前で出逢えているのだ・・・と。

 

だからといってコンペションの審査となると

無条件で受け入れることではないですし

確固たる美学を持っていることが大事な要素だとも言えます。

 

わたしは、いつも

頭のなかに大きなハテナを描くようにしています。

 

「なぜ、この作家はこの作品を創ったのだろうか?」

「どうして発表したいのだろうか?」

 

可能な限り、彼ら彼女ら、作家の心境になって

彼らの声にならない物語を翻訳したい

そう努力するようにしています。

 

 

 

それでも、どう見ても

「作品として成立していない」

と感じる作品があります。

 

その時こそ、自分の美学で線を引くのです。

ちなみに、わたしの線引きのボーダーラインは以下のような条件です。

 

・流行や刺激を追いかけている

・仕上げのクオリティが低い

・作品が言語化できていない

・野望だけに走って俯瞰できていない

・世界観が浅い

 

ほかには、自分の考えを伝えたいばかりが先立ってしまい

「これで終わり」として自己欲求主義がうかがえるような作風や、

オーディエンスになにも問いかけていないように感じる作品・・・

 

など、ちょっと厳しいようですが

わたしが「作品を感じるときの美学」

として結論づけていることです。

 

では、そのような作品に出逢ったときはどうしているのか?

というと、

「さらに大きなハテナ」を持つようにしています。

 

その判断はとてつもない誤解をしていないかどうか

本当にそうなのかどうか?

とボーダーラインを引くのはとても難しいのですが

 

どんな作品でも、丁寧に時間をかけて対話することは

アーティストとして生きる上で忘れてはいけません。

 

どういう基準であっても、賛否だけを論じていては

外したばかりの色眼鏡を再度かけ直すことになりかねないからです。

 

だからわたしは

目の前の作品たちと作家たちに問い続けます。

 

そして最終的にひとつの問いにぶち当たるのです。

 

わたしの最後の問いとはこれ

「なぜ、この作品がわたしに目の前に現れたのか?」

です。

 

つまるところ、ニュートラルに「見る」という行為は

自分への問いなのだろうと思います。

 

みなさんも、自身への問いを追い続けることで

いつもクリアな審美眼を保っていてほしいなと

冬空のアトリエから願っています。

 

 

 

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